ベトナムのハノイ市で人気レストラン “Pépé la Poule” と “Soy Pepe” を営む増田悠さん。河川敷でのボランティア活動をきっかけにベトナムへの長期居住を決意し、記事執筆時点では約50名の現地スタッフと共に店を切り盛りしています。そんな彼に、文化の異なる環境での奮闘についてお話をうかがいました。

ベトナムとの出会い ── 河川敷のボランティアから
まずはベトナムに来たきっかけから聞かせてください。
2010年頃です。ハノイ市で1年間、ボランティアをしていました。
ベトナム戦争などで家を失った人々などが集まった河川敷の貧困区域で暮らす子どもたちに、ご飯を作る活動です。
奉仕側が参加料を支払って参加させてもらうもので、当然、自分自身の生活費も自己負担です。
なぜベトナムでボランティアをしようと思い立ったのでしょうか。
29歳の時、自分が想像していた30歳の自分にはほど遠く、焦りを感じていました。
というのも、憧れの兄の影響が強いです。
兄は、長いこと、海外で活躍していたんです。
29歳で亡くなり、自分自身も同じ歳になって、何か挑戦しないといけない。
そんな気持ちを強く抱いていました。
中卒で高校を出ておらず、英語を使えませんでした。
そのため、英語が不要で、自分の職を活かせる料理人を募集していた、ハノイ市を選びました。
つまり、行けるところが、ここ(ハノイ市)しかなかったんです。
そのあと、どうしてお店を持つことに?
お金が尽きたので、一度日本に帰りました。
そして飲食店でアルバイトをしながら、ベトナムに戻るチャンスをずっと探していました。
人に会うたびに「ベトナムに帰りたいんです」と言っていたら、たまたま、ある人から「ホーチミン市で店を出すけど、店長やってみる?」と声をかけてもらって。
本当はハノイ市でやりたかったのですが、せっかくのチャンスでした。
「2年間だけでいいなら」と事前に断った上で始めたのが「Orange(オレンジ)」でした。
オレンジは当時、日本人の間では非常に有名店で盛況だったのになぜ閉店したのか、長年の謎が解けました。
そうですね。どうしてもハノイ市でやりたかったので。
でも、ボランティアを除けば、オレンジが外国人と働いた最初でした。
なぜハノイ市にこだわったのでしょうか。
ボランティアをしていたとき、「いくら勉強をしても、ちゃんとした住所がないから、就職もままならない」という話を人々から聞きました。
だったら、自分で店を作って、彼らを雇おうと。
それがベトナムで成し遂げたかった大きい目標だったので、これはゆずれませんでした。
店名の Pépé la Poule には、由来がありますか?
実は、Pepe というのは当時フランス人の共同経営者みたいな人物がいて、彼女から名前を取りました。
「プール(poule)」はフランス語でチキンという意味です。
正直、深い意味はないんですよ。
ホーチミン市のカウンターで何人かで飲んでいた時に、酔った勢いで「Pépé la Poule でいいんじゃない」と。
誰が言い出したかも覚えていないくらいで。

マニュアルを持たない店
今のハノイ市のお店でのマネジメントスタイルを教えてください。
経営者という肩書きではあるんですが、感覚としては毎日お店に立つ店長です。
スタッフのその日の顔を見て、問題がないかとか、接客をしたりとか、それを毎日やっている感じですね。
うちは細かいマニュアルやルールがすごく少ないんです。
正直、僕はシステムを作るのが苦手というのもあって。
だからスタッフそれぞれにやり方があって、日によってやり方が毎回違うこともあります。
ただ、共通認識としてあるのは「お客さんをハッピーにする」ということです。
顔に書いてあることが全て
文化や言語の違う相手と働くうえで、心がけていることはありますか。
ハノイ市の市民性なのでしょうか。
スタッフからは、本音がなかなか出てこないんです。
本人が「OK」と言っても、僕としてはそこはあまり信じないというか。
顔に書いてあることが全てだと思っています。
ベトナム人スタッフから本音を引き出すまでには、とにかく時間がかかる。
日本人も本音を言わない国民性とは言われていますが、僕の感覚としては、それ以上に上司の察する力が問われます。
基本的には表面的な言葉は鵜呑みにしないようにしています。
人としての信頼とは別の問題です。
本人が「大丈夫」「満足している」と言っても、心の中ではそう思っていないのではないか。
そう疑うことは多々あります。
これは、率直な人が多いホーチミン市とは対照的ですね。
外国人と働くことで「自分を知った」
異文化での経験から得たもので、大きかったことは?
一番は、自分自身をよく知れたことです。
Pépé la Poule 創業時にはフランス人の経営パートナーがいました。
他人からはケンカと誤解されそうなくらい、彼女とは熱意を持って討論を繰り返していたように感じます。
彼女はとてもストレートで、日本人からはなかなか指摘しないことを言ってくれるんです。
たとえば自分では怒っていないつもりでも、「その顔は、はたから見たら怒っている。周囲に悪影響を及ぼす」と指摘されたのを覚えています。
自分を客観視しなければならないと気づかされました。
ただ、これは実は彼女も同じで、すごくネガティブな気配を隠さずに出勤してくることがあった。
でもそれが逆に「ああ、こういうことか」と、すごく腑に落ちたんです。
これって、外国人だからこそ、暗黙の了解ではいられない。
口に出さないと伝わらない。
そういう環境だから、指摘し合うことができて、自分も気づけたのだと思います。
過剰勤務からの正常化
Pépé la Poule では社員の定着率が高い印象があります。
飲食店としては定着率はかなりいいと自負しています。
60%以上が5年以上働いてくれています。
ホーチミン市のときからついてきてくれて、12年以上勤めている人もいます。
ベトナムの飲食店でその定着率は希少だと思います。
ただ、最初はいわゆる「ブラック企業」だったと反省しています。
朝から晩までみんなで働いて、でも給料は安くて。
しかも当時の僕は、自分のやり方が絶対だと思っていて、今にして思えば必要以上に厳しくしていたんです。
それが彼らにとっては相当なストレスになっていたのかもしれません。
スタッフが何人も体調を崩したことをきっかけに、少しずつ労働環境を変えていきました。
今の労働環境は?
今は、オフィス勤めの企業と同じように、1日8時間でシフトを組んでいます。
Pépé la Poule は月6回、Soy Pepe は月8回休み。
飲食店にしてはめずらしく、きっちり労働時間を管理できています。
仕組みを作るのが苦手とは言いましたが、一応は実質的にお店をまとめるジェネラルマネージャーみたいなポジションは配置しており、その下にさらにマネージャーが8人ほどいます。
キッチンにもシェフが2人。
体制を整えて、休みを取れる状態にはできました。
労働環境の改善は、実は僕一人の力ではなく、スタッフと力をあわせて、みんなの力で成し遂げたと思っています。
目標は「スタッフの給料を増やすこと」
これからの目標を教えてください。
経営が苦手なので、今のところ、店舗を増やすつもりはありません。
それよりも、いまの2店舗をもっと繁盛させて、スタッフの給料を上げたい。
目標というなら、それになります。
発言にコミットしなければならない経営者の立場で、それを公言できるのはすごいと思います。
ただ、レストランですので、食料品やワインの物価上昇が利益を直撃しています。
給料を上げたい気持ちはずっとあるのですが、50名規模だと少し上げるだけでも影響が大きくて、経営者としての立場とのジレンマに陥っています。
日本の「当たり前」は、当たり前じゃない
これから外国人と働く日本人に、伝えたいことはありますか。
やっぱり、日本人の「当たり前」を押し付けないこと。
むしろ日本人が一番変わっているんじゃないか。
そう思っています。
ボランティア時代、15か国くらいの人たちと一つ屋根の下で暮らしていました。
共有のキッチンが一つだけあって、みんな自分で作っても洗わない、食べても洗わない、汚れたまま。
最初は「なぜこの人たちは、きれいに片付けないんだ」と思っていたんです。
みんなの分まできれいに片付けているのは自分だけ。
でも、短期で日本人のボランティアが来ると、ちゃんとみんなの分まで片付けてくれる。
いろんな国の人がやってきましたが、日本人と同じようにやってくれるのは、僕の知る限りはドイツ人くらいでした。
日本人同士なら、言わなくても分かってくれるだろうと期待してしまう。
でも、相手にとっては当たり前ではない。
暗黙の期待を押しつけないことが大事だと考えています。
もっとも頼りになるのは “心”
ホーチミン市時代を含め15年、海外でマネジメントしてきて、一番大事だと思うことは?
(胸を指さして)”ここ” です。
大事なのはハート(心)だと思っています。
ハートが強ければ、なんとかなる。
どちらの意味でしょうか。辛抱強くなるのか、心の交流のことか。
両方です。
僕が思うに、経営者は心の強さと、社員の心を読み取る力の両方が必要です。
ただ、最近は僕にも子どもが生まれて、仕事と家庭のバランスに悩んでもいます。
だから、長年勤めているスタッフから見ると、熱意が冷めてしまったように見えているんじゃないかと心配です。
経営は数字だの効率化だのと言われがちですが、それ以前に”ここ(心)”が重要だと、僕は思います。
